血の窓

明治14か15年頃の事である。河内の生駒山の麓にある住道村に沖村辰造という農民がいた。歳は26,7で最近結婚したばかりで夫婦仲も良く、お互い助け合って働き貧しい中でも幸せに暮らしていた。
夏が過ぎ、9月頃から辰造は眼が悪くなりはじめた。治療や観音様へのお参りなど妻のお留はしてみたが、日に日に悪くなる一方だった。お留は何とかして辰造の眼を治したくて苦しい家計の中から医者を迎え薬を買っていた。
そのうち、お留の稼ぎだけではどうにもならなくなった。お留は奉公にでも出ようと辰造に相談した。苦労をかけてしまうからと辰造は容易に納得しなかったけど養生するには金が必要である。
近所の人もお留の言い分をわかり一緒に説得して、やっと辰造は納得した。 続きを読む

子を食べた母

    文政年間(1818~1830年)の頃、信州の某の山里に住む夫婦の間に一人息子がいた。
ある日、夫が外に出て妻と息子が残っていた。息子は5歳であったが、小刀で指を切ってしまった。そして血を見て思い切り泣き叫びだした。
母は口で舐めて血を止めようと思い、ついその血を飲んだところその味が何とも言えず美味しくて我慢できなくなり、指を食べ、とうとう片腕を食べてとうとうその子を食い殺してしまった。
夫が帰ってきては大変だと思い、家を出て山に隠れそのまま行方知れずとなってしまった。

その後5年が過ぎ、女が山から下りてきて村長の家に来た。食い物を乞い以前自分が子供を食い殺した事、そして山へ隠れた事を語ったがその女の顔は馬のようであり、身体には毛が生えまるで獣のようであったという。見る者は恐れて逃げたので、その女も姿が見えなくなってしまった。
里人は、またこのままでは人を食い殺すだろうと領主に訴えたので山狩りをしたけれど、とうとう行方は分からなかった。

血染めの屋敷

備後国(広島県)の尾道に小左衛門という男がいた。代々富豪の家柄であった。この小左衛門の父は観勇といい、いつのころか病に伏すようになり、名医や薬など色々試してみたが快方へ向かうことはなく、それとは逆に日に日に弱り果てていた。
観勇は最期の言葉を思い、小左衛門を呼び出した。「死ぬ前に話しておかないといけない事がある」という言葉から始まった。
その話というのが…。
観勇の父の代に家で不祥事があった。しかしそれは些細なものであった。誰の仕業ともわからず近隣には尾ひれのついた噂となりとても困った。困り果てた観勇の父はこの問題を終わらすために誰かを勝手に犯人にしたてあげて事件そのものが終わったとしたら、近隣にも良いのではないかと思いついた。
さて、その犯人としてしたてあげられたのは、竹という召使いであった。竹はノロく機転もきかず仲間の者からはとても疎んじられている女であった。
その女には身元もいなかったのか竹に罪をきせてもどこからも言われないだろうと思った観勇の父は罪状を勝手に作り上げ、いびり続け、しかも食事も与えず結局なぶり殺しにされてしまった。
竹は今わの際に「この恨み…末代まで祟り抜いて思い知らせてくれる…」と言い残し、こと切れてしまった。
やがて観勇の父も原因不明の奇病に罹り虚しくこの世を去ってしまった。
そして今回はとうとう観勇の奇病である。これもきっと竹の恨みの仕業であろうと思った。
「これからは神仏を奉り、貧しいものには慈悲を与え、正しい行いをして生きるように」と言い残すとまもなく観勇は息を引き取った。

そしてはや観勇の一周忌を終えた翌朝。小左衛門は座敷の障子を開けいい気分で歌を詠んでいた。その時ふと自分の着物の裾に血が付いてるのが見えた。(おや?怪我でもしたかな?)と拭ってるうちに血は着物だけではなく畳にまで及んでおり、目を上げると壁や柱といわず部屋のあちこちにおびただしい血が滴り落ちていた。
あまりのことに動揺し、家の者にも言わず早めに床に就いたが小左衛門は父の遺した言葉であろうかと頭をよぎった。
翌日、再び座敷に出た小左衛門は畳から板敷に至るまで海のように血が染めたさまであった。
もう隠せないと思った小左衛門は家来に事情を話し、血を拭き清めるようにと命じた。しかし家来の目には血など一向に目につかず「旦那様、血などどこにもありませんが」と言うと小左衛門は「何?これが見えぬのか?」と顔が上気していたのでやむなく家来は小左衛門が指さす方を拭いた。小左衛門は「ほら見ろ、雑巾は真赤ではないか。新しいのに取り替えて拭くように」と命じた。
そんな日が何日も何日も続いた。しまいには座敷のみならず台所や庭など屋敷中を拭くようにと言い出した。家来達は初めの頃こそ小左衛門に同情すらしたが、しだいに疎ましくなりだんだんと家来は辞めていった。

ある時、心配になった親戚一家が訪ねてきてくれた。小左衛門は「よくお越し下さった。しかし御覧の通り家中どこもかしこも血に染まっておりますので座っていただく場所もございません。どうかお早くおかえり下さい」と言った。親戚一家は(何もないのにやはり噂通り小左衛門には血がみえるようじゃ)と囁きあいその日は帰ることにした。
後日、これを痛ましく思った親戚一家は小左衛門に美しい食事を届けさせた。使い物が「器も綺麗に洗浄しておりますゆえどうぞご安心なさってください」と言った。小左衛門も有難く久々のご馳走だと蓋にてをかけると一口、二口と食べ始めたところたちまち赤黒い血が器をみたしてきた。箸を投げるとその箸は血溜まりに落ちた。
そういう間に小左衛門が目をあげると、どこもかしこも血だらけになっていた。それでも浸出してくる血を拭い、血に染まった着物を引き裂き投げ捨てる小左衛門はもう常人の目ではなかった。
1年後…小左衛門は子もないままにこの世を去った。竹が祟り抜いた富豪の家は断絶となった。

同行する幽霊

この話は当時の新聞に掲載された事件である。
昭和元年2月12日の夜、大垣市のある町の自転車店へ強盗が入って熟睡中の店主F氏が殺害された。警察は必死に犯人を探し、ついに別の町の精米屋の次男であるYを検挙した。
そのYを検挙した日が、偶然にも被害者の100箇日だった。
その後は岐阜地方裁判所で公判に附せられたが容疑者の弁護士であるKが容疑者Yと面会した時に不思議な話をした。

その話というのは、Yは犯行後1か月後に東海道線米原駅のある旅館で昼飯に入った。店員が2つ箸を持ってきて一つをYの前に置きもう一つを左側へ置いた。Yは変に思い「1人できているのだが」というと店員は怪訝な顔をして辺りを見回し「あら?もう一人の方はどちらへ行かれたのですか?」と聞く。
ちなみにどんな容姿の人だ?とYが聞くと「25、26歳ぐらいの人でこんな感じの顔でした」と説明を聞いているとそれは被害者のFにそっくりだった。Yは怖ろしくなってそのままそこを逃げ出した。

Yは殺害時、斧でFの頭部を粉砕して殺害した。その時の返り血が右腕に着いたのだがいくら洗ってもこすってもとれなかったのが、検挙されて犯行を自供すると同時に綺麗にとれてしまったという。

古樹の怪

牛込と大久保の境に若松町(東京都新宿区内)という所があった。その組屋敷のあたりに、何年ともわからない古い杏樹があった。
ある年、枝葉が茂っていて近辺の者が日が当たらないので、木こりに枝を切ってもらうこととなった。
いざ切るとなると、ベテランの木こりなのに真っ逆さまに落ちて大怪我をしたり、枝によっては血を流すものもあったり、煙が立ち上る枝もあって、近所では「化け杏樹だ」という事で恐れられることとなった。