全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』では、日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――古代日本のさまざまな謎を、民俗学の方法論で解き明かしました。
中国南方の「長江文明」からやってきた渡来系弥生人、九州にあった海人族のクニ「邪馬台国」、天孫族のクーデターによって畿内へ東遷した「大和朝廷」……卑弥呼の怨霊を恐れた天武天皇と持統天皇による「天照大御神」の祭祀と「宇佐神宮」の保護……祭祀王「天皇」と律令国家「日本」の誕生。
信仰やまじないといった価値観が蔓延していた古代日本の謎は、歴史学や考古学だけでなく、民俗学の方法論なくしては解くことはできませんでした。
今回は連載まとめとして、解き明かした謎を時系列順にわかりやすくまとめます。縄文時代から弥生時代、邪馬台国、大和朝廷、そして日本誕生までの古代日本史を一気に駆け抜けます!
じっくり謎解きをしたいという方は、ぜひ連載第1回からご覧ください。
縄文時代
今から数万年前、日本列島はユーラシア大陸と地続きだったと考えられています。今の日本海は、当時大きな湖だったのでした。このころに大陸をつたって北方・および南方から日本列島に移動してきたのが縄文人の祖先です。
いわゆる日本の先住民で、学術的には「日本列島人」とか「ヤポネシア」と呼ばれます。
歴史の授業で習った方も多いと思いますが、弥生人と縄文人は異なる民族であったことがわかっています。
縄文人は彫りが深い顔で、毛深く、目は大きく二重。弥生人は反対にのっぺりした顔つきで、目は一重で体毛は薄いなど、現代の中国人や韓国人に近い要素をもっていました。
2019年、縄文人の全ゲノムがはじめて完全解読されました。ゲノムというのは、簡単にいってしまえばDNAなどの遺伝情報のことです。
国立科学博物館の調査結果によれば、いわゆる「東アジア人」は、「北東アジア人(現在の中国人はここに含まれます)」と「東南アジア人」と「縄文人」の3種類にわけられるといいます。
ゲノム解析からわかった縄文人の系統樹
出典:JT生命誌研究館
今までは東南アジア人か北東アジア人が日本列島に移動してきたのが、縄文人になったと考えられていたのですが、それよりだいぶ古い時代に東アジア人たちの共通先祖からわかれて日本にやってきたことがわかったのです。
その後、海面の上昇によって日本列島が現在のように独立。縄文人たちは1万年以上にわたって独自の文化をつむぎます。縄文時代です。
縄文人は木の実を拾い、動物や魚介を狩って暮らす「狩猟採集民」でした。対する弥生人は「稲作農耕民」でした。
ただ誤解のないようお話しますと、縄文人も焼畑農業のような原始的な農耕は行っていました。また縄文時代から稲作を行っていた遺跡も見つかっていますが、これは「インディカ米」や「熱帯ジャポニカ米」などの陸稲……つまり、水田でも畑でも作れる米でした。
これらは南インドなどから琉球列島を経由して日本に入ってきた、南方ルートの稲作です。

福岡県の板付遺跡や、佐賀県の菜畑遺跡など、縄文時代に水田稲作が行われていた痕跡も残っていますが、これらは後に続かなかった一過性の水田でした。
他の地域には広がっていませんし、また紀元前10世紀ごろの金属器のない時代の遺跡です。木製の農耕具では、洪水に耐えられる工事はできなかったので、すぐに土砂に埋もれてしまったのでしょう。稲作は治水の技術があってはじめて有効活用できるのです。
縄文時代については連載第3回でくわしく紹介しています。
弥生時代

紀元前5世紀ごろ、縄文時代から弥生時代へ移行します。稲作の伝来によって人口が激増し、クニが誕生し、日本に革命が起こりました。
朝鮮半島を含む中国大陸から九州へ渡来人がやってきて、稲作と鉄器を伝えたのです。彼らが弥生人の中心をなした「渡来系弥生人」です。
一時期はこの渡来系弥生人によって縄文人は滅ぼされ、渡来人と入れ替わったような説もありました。つまりアメリカ大陸のインディアンがイギリス人に滅ぼされたような、先住民の虐殺ですね。
しかし現在では、こういった戦争や民族の入れ替わりはなかったことがはっきりしています。日本で戦争の形跡が見つかるのは、弥生時代中期からです。
この頃日本では寒冷化が進み、狩猟採集の縄文社会は大打撃を受けていました。そのため縄文人は水田稲作を受け入れ、また渡来系弥生人も、稲作を受け入れた縄文人を同じ民族と見なしたのです。
このことは弥生時代中期に、狩猟用の弓の装飾が最高レベルをむかえることや、抜歯などの縄文時代の風習が残っていることからもわかります。
「和を以て貴しとなす」の意味
画像引用元:Career-Picks
福岡県の安徳台遺跡(弥生中期)の、渡来系弥生人と思われる骨格をもった日本人のDNAからは、渡来系と縄文人の遺伝子が発見されました。渡来から100年間で、だいぶ混血が進んでいたことがうかがえます。
聖徳太子が日本で最初に作った憲法「十七条憲法」の第1条に、「和を以て貴しとなす」とあるように、日本人が昔から「和」をもっとも重要視していたことがわかりますね。
ここで現代の日本人のゲノムの解析結果も見てみましょう。
出典:JT生命誌研究館
縄文人と中国系のDNAの中間に位置しているのがわかります。今の日本人は、縄文人と渡来系弥生人の混血ということになりますね。
ただし縄文人のDNAは今では12%ほどしか残っていないということで、いかに日本に渡ってきた渡来人が多かったかがわかります。
また縄文人の中には、稲作文化を受け入れずに縄文文化を守り続けた者たちもいました。いわゆる東北の「蝦夷(エミシ)」や、南九州の「隼人(ハヤト)」や「熊襲(クマソ)」です。
北海道の先住民「アイヌ」や、沖縄の「琉球民族」も、距離的な関係で人や稲作が渡来しませんでした。(沖縄は九州から近いように感じますが、海流の関係で日本からの航海は非常に難しかったのです)
核DNAの分析では、アイヌには縄文人のDNAが70%、沖縄在住の日本人には30%も残っていることがわかっています。本土日本人(東京)が12%ということを踏まえると、だいぶ縄文の血が残っていますね。

アイヌの民族衣装
つまり弥生人は
- 渡来系弥生人
- 弥生文化を受け入れた縄文人
- 渡来系弥生人と縄文人の混血人
- 弥生文化を受け入れなかったor届かなかった縄文人
の4種類にわけられるのです。そして上の3つを歴史学では「大和民族」や「倭人」と呼びます。
このうち蝦夷などの稲作を受け入れなかったオリジナルの縄文人も、大和朝廷から攻撃を受け、散り散りになってしまいます。その後は山奥に隠れ住む「山人(やまびと)」になったり、北海道まで逃げてアイヌと同化したりするも、近世に戸籍が整えられ、明治時代に北海道が開拓されたことで実質消滅してしまいました。
このように日本人は、縄文人(日本列島人)と渡来系弥生人(大陸人)の2重構造になっているというのが定説でした。しかし、そうも単純ではなかったのです。

国立遺伝学研究所の斎藤成也氏による最新のゲノム解析によれば、日本人は次のような3重構造になっていることが判明しました。
- 縄文人(旧石器時代に登場)
- 渡来系弥生人第1波(弥生時代初期に渡来)
- 渡来系弥生人第2波(弥生時代中期以降に渡来)
弥生人には弥生時代初期に来た「第1波」と、弥生時代中期以降に来た「第2波」があったのです。東北・長野・島根の弥生人は弥生第1波のDNAをもっており、それ以外の北部九州・関東・近畿を中心とした大和民族は弥生第2波のDNAをもっているそうです。
この結果は、従来の歴史学や考古学による日本人2重構造説に衝撃を与えました。
しかし民俗学や神話学の観点からは、ずいぶん昔から3重構造説が唱えられていました。日本神話や古代の文献、文化を読み解くと、明らかに2種類の大陸文化が見えてくるからです。
まずは第1波弥生人について紹介します。第1波弥生人とは、中国大陸南方沿岸部の、長江文明にルーツをもつ東南アジア系の民族でした。
弥生時代前史-中国長江文明の第1波渡来系弥生人-

中国の古代文明といえば、紀元前5000年ごろに北方内陸で栄えた「黄河文明」が有名ですよね。
殷王朝や秦王朝といった中華帝国の発祥地であり、小麦によって栄えた文明でした。メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明と並ぶ世界四大文明として習った人も多いと思います。
しかし近年、中国南方沿岸部の「河姆渡遺跡(かぼと遺跡)」が発掘され、黄河文明より1000年以上も古い「長江文明」の存在が明らかにされました。
日本では長江のことを長らく「揚子江」と呼んでいたので、こちらの方がなじみがあるかもしれません。
最初の方で、東アジア人はDNAから「縄文人」「北東アジア人」「東南アジア人」の3つに大別することができるといいましたよね。これを中国に当てはめると、北東アジア人が黄河文明を、東南アジア人が長江文明をになっていたと思われます。
黄河文明が畑作(小麦)牧畜で栄えたのと反対に、長江文明は稲作農耕によって栄えました。

出典:JT生命誌研究館
稲作のルーツは長江文明にさかのぼることができるのです。弥生時代、日本に産業革命を起こした「温帯ジャポニカ米」の原産地も長江中流域と判明しています。
長江文明は、長江の水を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁労民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」でした。ここから生まれたのが呉や越といった越族の国です。
越族(百越)は海岸沿いに住み、体に竜の入れ墨をし、米と魚を常食とする海洋民族でした。海の神である竜神を信仰し、竜と同じ存在である蛇神もまた信仰していました。
内陸北方の漢民族(北東アジア人)からは、越族(東南アジア人)は顔つきや文化が異なる異民族として蔑視されていました。しかし春秋時代、呉越は中国で先駆けて鉄の武器を手に入れたことで、一転して大きな勢力となります。
斉、秦、宋、晋、楚、呉、越の7つの大国が覇を競った春秋戦国時代の幕開けです。
紀元前473年、呉は越に滅ぼされます。さらに紀元前334年、越も楚に敗北。長江文明におこった越族のクニは全滅しました。
滅ぼされてどこへいったか? もうお気づきだと思います。日本列島です。
呉が滅ぼされた時代と、日本に稲作(温帯ジャポニカ米)が普及した時代が一致するのは、こういった関係性があるのです。
『魏志倭人伝』によると、中国へ朝貢に行った倭人(弥生時代の日本人)は、皆「大夫(たいふ)」と名乗ったといいます。
大夫とは春秋時代の中国の身分の1つです。『史記』を読むと、呉や越にも「大夫」という階級があったことがわかります。
この階級を名乗ったということは、倭人が中国大陸の文化に精通しており、また中国大陸にルーツをもつことを宣言しているようにも思えます。

さらに『魏略』や『晋書』、『梁書』などには、決定的な記述があります。
「自謂太伯之後」
金印をさずかった奴国(なこく・邪馬台国より150年ほど前のクニ)の倭人は、「自分は太伯の末えいである」といったといいます。
「太白」とは、呉の建国者です。王族の血を継いでいるというのは去勢かもしれませんが、倭人が呉にルーツをもっていたのはほぼ確実でしょう。
奴国は現在の福岡市や春日市など、福岡平野一帯にあったとされていますが、ここは安曇族(アズミ族)の発祥の地とされています。
安曇族とは、先に書いたように入れ墨文化を受け継いだ海人族の筆頭です。安曇野族(アズミノ族)とも呼ばれます。

漁労にすぐれた邪馬台国もまた、海人族のクニだったのでしょう。
呉越(中国南方)の越族は、邪馬台国の倭人と同じように、稲作漁労で生計を立て、また入れ墨の文化をもっていました。
彼らこそが、弥生時代初期に日本に稲作をもたらした第1波弥生人です。しかし武力をほとんどともなわない民族で、先住の縄文人と平和的に同化しました。
渡来系弥生人のルーツについては第3回でくわしく紹介しています。
弥生時代前史-苗族(ミャオ族)と長江文明-
ミャオ族
画像引用元:Wikipedia
最近、貴州省に多く住む中国の少数民族「苗族(ミャオ族)」に、日本人のルーツがあるという話を耳にします。
ミャオ族は中国内陸を中心に、タイやミャンマー、ベトナムなどにも分かれて住んでいる東南アジア系の少数民族です。その歴史はかなり古く、ルーツは長江文明にまでさかのぼることができるとされています。
つまり呉越などの国を生んだ稲作の発祥地です。中国の伝説に残る「三苗人」がその祖先だといわれているのですが、こちらも文献資料がないので正確なことはわかりません。
ただ今回はわかりやすく説明するために、ミャオ族の祖先を三苗人とします。
長江流域に稲作漁労の生活をしていた三苗人たちでしたが、4200年程前に起こった寒冷化によって暮らしが一変します。北方にいた黄河文明の人々が南下してきたのです。

彼らは畑作牧畜を生業にした武力的な民族でした。三苗人たちはあっという間に追いやられました。
そうして山奥にまで追いやられたのが、ミャオ族をはじめとした少数民族です。しかし中には地方の民族と力を合わせて抵抗した集団もありました。これが越族のルーツであり、呉越の建国につながります。
ただこの時、海を渡って別の世界に逃げた者もいました。一部は台湾の先住民となり、そして一部は日本へ渡来し、稲作を伝えたというのです。
環境考古学者の安田喜憲氏は、現在のミャオ族と弥生文化に共通性を見出しました。稲作漁労、そして高床式倉庫です。
民俗学者の鳥越憲三郎氏は三苗人に限定せず、中国下流域から東南アジアに至るまでの南方系の人々と、弥生人を同じ「倭族」だとしました。倭族の共通文化は、稲作漁労と高床式住居です。

東南アジアの高床式住居
たとえば現在のハニ族やイ族は弥生時時代の人骨とそっくりであることから、倭族の末えいだとしています。他にも自然崇拝のアニミズムや、鳥居に注連縄のような文化が見られます。
ですからミャオ族が日本人のルーツというよりかは、ミャオ族と日本人(第1波弥生人)は同じルーツをもつという方が正しいかもしれません。
筆者としては、三苗人も、呉人も、越人も、みんな日本に来たのだと思います。彼らは皆、長江文明にルーツをもつ東南アジア人であり、稲作漁労民です。
そして皆、北方の北東アジア人によって追いやられた人たちです。
日本はそういったボートピープル(船で逃亡した難民)の移住先だったのです。
しかし、なぜ彼らはこぞって日本に来たのでしょうか?
弥生時代前史-太陽信仰の聖地「東の日本」-

ハイチのボートピープル(2005)
なぜ長江文明や呉越にルーツをもつ第1波弥生人は、こぞって日本にやってきたのでしょうか?
理由は2つあります。1つは海流です。
東シナ海から東に漕ぎ出せば、海流の関係で北部九州か朝鮮半島南部に流れつきます。中には対馬海流に乗って日本海側を北上し、北陸地方に着いた人もいたかもしれません。
新潟県~石川県の辺りを昔は「越国(こしのくに)」と呼びました。今でも「越前」や「越後」といいますよね。この地名の由来は「越族」にあるという説があります。
ですが海流はいわば追い風であり、彼らはやはり、日本列島を夢見て目指したのだと思っています。それが2つ目の理由、宗教・信仰です。
稲作の発祥地である長江流域に起こった中国最古の文明「長江文明」には、太陽信仰がありました。
長江文明最古の遺跡が「河姆渡遺跡(かぼと遺跡)」です。ここで見つかった象牙には、太陽の光球を中心に2羽の鳥が向かい合っている図が刻まれています。
太陽と鳥の象牙(河姆渡遺跡)
画像引用元:Wikipedia
稲作農耕には、太陽が必要不可欠です。それは単純に、稲を育てるのに太陽光がいるという意味ではありません。
古代人は太陽の運行によって季節や一年の移り変わりを知り、種まきなどの農業の時機を測りました。
この太陽と鳥のモチーフは、長江中流域の「高廟遺跡(こうびょう遺跡)」や上流域の「三星堆遺跡(さんせいたい遺跡)」からも見つかっています。
これらの遺跡からは同時に、丸木舟や櫂(かい)などの船に関連する異物や、タイやサメの骨、クジラの背骨も出土しています。三苗人などの長江文明の担い手は、米と魚を常食とする稲作漁労民でした。
長江は川といっても30kmもの川幅がありますから、ほとんど湖や海です。
長江で漁をする海人族は、まるで遠洋漁業をするように船の上に住み、また鵜(う)を使って魚を獲る「鵜飼い漁」をしていました。

岐阜県長良川の鵜飼い漁
長江文明の遺跡に見える鳥のモチーフは、鵜ではないでしょうか。
太陽と鳥というモチーフは、稲作漁労民を象徴する信仰対象を示していました。
紀元前4世紀から3世紀頃までに成立した中国最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、中国各地の伝説が残されています。
ここに、日本と思われる「扶桑国(ふそう国)」のことが載っています。扶桑とは、東の海の果てにあるとされた伝説の巨木です。ここから太陽が昇るとされました。
『山海経』の頃は伝説のような記述なのですが、その後の中国の文献を見ていくと、扶桑が生えている国(扶桑国)は日本の別名として使われるようになります。

また『魏志』「東夷伝」の序文には、こんな記述があります。
「粛慎の庭を踏み、東大海を臨む。長老説くに異面の人有り、日の出づる所に近し」
粛慎という中国北方の国の長老が、「東の海の向こうに異面の人が住む国がある。そこは太陽の昇るところに近い」と語っています。
中国から見て日本とは、日の昇るところに近い国=「日のもとの国」でした。
太陽信仰と海の異界思想を持つ長江文明(呉越)にとって、東海の果てにある日本列島は、まさに「聖地」。
北方の漢民族などに追いやられた南方の長江文明、三苗人、越族は、皆東シナ海を脱し、伝説の日の出づる国を目指しました。ようやくたどりついた彼らが、自国を「日本」と呼んだのは至極当然でしょう。
弥生時代-稲作と高床式倉庫の普及-

高床式倉庫
弥生文化といえばやはり「稲作」と「高床式倉庫」です。
高床式倉庫とは名前の通り床が高い位置にある、つまり「軒下」がある建物です。はじめは穀物を保存する倉庫として広まり、古代の貴族の住居や神社仏閣も高床式で建てられるようになります。
長江文明では高床式住居が利用されました。これは稲作文化が起こった長江流域が高温多湿、かつ降水量の多い環境だったからです。地面と距離があれば湿気を避けられますよね。
日本は長江流域ほど高温多湿ではないので、穀物を保存する倉庫に高床式建築が用いられたのでしょう。
ちなみに縄文時代にも、根付かなかった稲作の遺跡が残っているとお話しましたよね。実は高床式倉庫も、最古のものは縄文時代中期から発見されているんです。
筆者はこれこそ、呉越の前に三苗族などの長江文明人が日本にやってきた証だと考えています。しかし彼らの原始弥生文化とでもいうべきものは、日本全体への広がりや革命を起こすには至りませんでした。

東南アジアの高床式住居
ではなぜ呉の越族(海人族)がもたらした稲作は、すさまじい速度で日本全体に広まり、日本に産業革命を起こしたのでしょうか。
それは越族が海洋民族だったらです。安曇族は航海にすぐれた海人族でした。
弥生時代の大規模な遺跡や水田地帯は、海沿いか川を登った先にあります。たとえば九州なら遠賀川や筑後川をさかのぼったところに多く、近畿でも大和川や淀川をさかのぼったところに大きな遺跡があります。
これは稲作の普及に海人族が関与し、川や海を船で移動して全国に稲作を広めた証拠でしょう。
最初に話したように、縄文人と弥生人のあいだに争いがあった形跡はありません。これは縄文人が稲作を進んで受容したからと書きましたが、筆者は長江文明と縄文文化の相性がよかったから、とも考えています。

縄文文化も長江文明も、争いを好まず、自然と共生する文化でした。対する北方文化は武力をもち、自然を切り拓く文化でした。これが第2波弥生人です。日本で戦争が起こるようになったのは弥生時代中期からです。
また越族は竜蛇(ウミヘビ)を信仰していましたが、縄文人もまたヘビを信仰する民族だったとされています。他には巨木信仰などでの共通点がみられます。
実際に核DNAの分析では、弥生第1波タイプのDNAが強く残っていたのは、東北・長野・島根の人骨でした。東北や長野といえば、縄文文化人は最後まで日本にいた地域でした。
実はこの3つの地域は方言も一緒で、「ズーズー弁文化圏」と呼ばれています。ズーズー弁とは東北や北陸(越中)に特徴的な方言なのですが、これがなぜか遠く離れた島根の出雲もそっくりの方言なんです。これらの事実は、縄文人と南方系第1波弥生人の親和性が高かった証拠でしょう。
第1波弥生人と日本の文化については第4回でくわしく解説しています。
弥生時代-邪馬台国-

第1波弥生人の次、弥生時代中期以降に日本にやってきたのが、中国北方・内陸部の黄河文明にルーツをもつ第2波弥生人です。
中国帝国の多くを担う漢民族をはじめ、モンゴルなどの騎馬民族や遊牧民族も合わせて北東アジア人といいます。彼らは内陸に住んでいましたから、漁などはヘタで、船ももっていませんでした。
しかし彼らは武力を持っており、その武力で各地を征服して中国帝国を起こしました。南方の民族を追い出し、第1波弥生人を日本へ渡来させる原因にもなりました。
おそらく北方内陸系の一部族が、朝鮮半島の高句麗(こうくり)か新羅(しらぎ)、百済(くだら)に移住し、そこから九州倭国との交易で日本列島にやってきたのでしょう。
そんな第2派弥生人が日本に持ち込んだものは、武力と戦争です。日本で戦争の痕跡が見られるようになるのは、弥生時代中期からです。
初期大和朝廷は軍事国家でした。初期大和朝廷=天皇家のルーツは、この第2派弥生人にありました。

第1波弥生人より優れた政治力と武力をもった第2波弥生人は、倭国(日本)を統一しようと戦争を繰り広げたのでしょう。これが『魏志倭人伝』に書かれた「倭国大乱」です。
しかし国は治まりませんでした。それもそのはず。当時の倭国の国民の大半は、縄文人か南方系の第1波弥生人だからです。
第1波弥生人と第2波弥生人の相性の悪さは先述した通りです。しかも第1波弥生人と縄文人は相性がよかったものですから、大多数の国民の心を得られなかったのでしょう。
そこで第2波弥生人がとった手段が、第1波弥生人との共存という名の妥協です。それが女王卑弥呼の擁立でした。
邪馬台国は主たる構成民族や、その文化・信仰は南方の海人族(第1波弥生人)のものでしたが、政治や軍事を担当したのは天孫族(第2波弥生人)でした。
邪馬台国が九州倭国を統一できた理由は、人心を掌握する宗教国家と、征服と政治に優れた軍事国家としてのバランスがとれていたからです。

そして邪馬台国の中枢にいた第2波弥生人こそが、のちの天皇家となる天孫族です。
こうして一応は権力者としての地位を手に入れた天孫族でしたが、やはり不満はあったでしょう。自分たちが王位に就いて倭国を統一したいという野望は捨てなかったはずです。
邪馬台国は女系女王の母系社会でしたが、大和朝廷は男系男子の父系社会。邪馬台国は海人族文化をもつ宗教国家でしたが、大和朝廷は騎馬民族文化をもつ軍事国家でした。
北方の騎馬民族に由来する天孫族(第2波弥生人)の理想の国家は、海人族や第1波弥生人、そして縄文人とは相いれない真逆のものでした。
だからこそ、卑弥呼が死んだ後にはすぐに天孫族から男王を立てようとしました。しかし結果は『魏志倭人伝』に書かれた通り……内乱が起こり、卑弥呼の一族である「台与」の女王政権が再び誕生することになります。
なおこの際、卑弥呼は邪馬台国の東方に祀られました。そう、宇佐です。宇佐神宮に卑弥呼の墓があるという説がある、宇佐神宮に天皇家のルーツがあるといわれるのはこのためです。

宇佐神宮本殿
台与政権の成立後から、中国が戦争状態に突入したので日本との関係は途切れ、古墳時代に入るまで日本の歴史は文献上から姿を消します。
これが日本古代史の有名な「空白の4世紀」です。天孫族のクーデター(東遷)は、おそらくこの時代に起こったのでしょう。
天孫族は今度こそ自分たちの国を作り、男系男子王権を確立させようとしました。そこで第2の妥協として選んだ手段が、卑弥呼の偶像化=天照大御神の創造です。
民衆の心をつかむためには宗教(信仰)が重要であることを、天孫族は十分知ったのでしょう。民族も文化も異なる邪馬台国の民の人心をつかむには、宗教しかありません。
ですから死んだ卑弥呼を、太陽神の女神として祀りあげたのです。これが海照神(アマテル神)であり、大日孁貴(オオヒルメ)=天照大御神でした。
しかしこれはあくまで人心をつかむための仮の偶像です。天孫族の真の先祖神は男神の高御産日神(タカミムスビ)だったからです。
宇佐神宮と卑弥呼と天照大御神の謎については第5回でくわしく解説しています。
弥生時代~古墳時代【邪馬台国東遷・神武東征】

天照大御神 歌川国貞画
日本神話の最高神である太陽神「天照大御神」と卑弥呼には、名前や職業、性別、年代、家族構成、食事、そして日本神話と『魏志倭人伝』の記述や描写など、偶然ではとてもすまされないほどの一致が見られます。これは第1回でくわしく紹介しています。
これは天照大御神が、卑弥呼をモデルに天孫族が作りあげた神だったからです。
天照大御神は今でこそ、日本神話の最高神であり、天皇家の先祖神(皇祖神)という格別の地位を得ています。しかし実は初期大和朝廷では天照大御神は重要な神(宮中八神)として祀られていませんでした。
しかも原則「男系男子」継承である天皇家のルーツが、女神にあるのは不自然です。
こういった理由から、今では天皇家の真の先祖神は男神の太陽神である「高御産日神(タカミムスビ)」だったという説が、多くの神話学者から支持されています。
これは事実で、天照大御神は初期大和朝廷にとっては人心をつかむための仮の偶像に過ぎませんから、宮中では祀りませんでしたし、奈良時代中期まで卑弥呼(天照大御神)の墓である宇佐神宮を放棄し、八幡神という渡来人の神に明け渡していました。
画像引用元:産経新聞
とかくこうして邪馬台国でのクーデターは成功しましたが、彼らは九州から畿内への東遷を決めます。
北九州は大陸との外交上、もっとも都市に優れた地域でしたが、当時は海人族(第1波弥生人)に支配されていました。騎馬文化をもつ天孫族は陸戦では強かったが、航海術や漁労の腕はなく、九州での戦いや外交・生業には海人族の力が必要不可欠だったのです。
そこで天孫族は、海人族の手が及んでいない東方・太平洋側の、また陸戦が生きる内陸部である畿内大和への東遷を決めたのです。
邪馬台国といえば、その比定地(場所)が大きな謎として200年以上に渡って議論されてきました。
『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は、文献によれば間違いなく九州にありました。しかし考古学的には、邪馬台国は畿内(近畿)にあったように思われます。
この矛盾を解決するのが、九州にあった邪馬台国が畿内へ移動したという「邪馬台国東遷説」です。
歴史学や考古学だけでなく、神話学や民俗学、地名学といった観点からもこの邪馬台国東遷説は支持できます。
邪馬台国の比定地と、邪馬台国東遷説の根拠については第2回でくわしく解説しています。
筆者は、邪馬台国の比定地は「筑後の山門(やまと)」=現在の福岡県 柳川~八女市一帯にあったと考えています。山門説は音韻学の立場から否定されがちですが、その否定根拠を否定できるとする理由も紹介しましたよね。
邪馬台国は「ヤマト国」でした。九州の山門(ヤマト)が畿内の大和(ヤマト)に遷(うつ)って、大和朝廷を開き、現代まで続く天皇制がはじまったのです。
海人族(第1波弥生人)を避けて、天孫族は瀬戸内海ルートから畿内入りしました。その道中、同じく第2波弥生人の軍事国家である吉備国や安芸国、摂津国、河内国の力を借ります。
そして畿内大和でニギハヤヒ=物部氏と協力し、ついに第2波弥生人の連合国家=大和朝廷を開きます。この邪馬台国東遷が、日本神話の「神武東征」のモデルでした。

その後、敵であるはずの海人族の一派「安曇族(アズミ族)」と同盟関係を結び、念願の九州征服を果たします。これがヤマトタケルの征西神話のモデルです。
こうして大和朝廷が誕生したわけですが、この初期大和朝廷(天皇家)は中近世の朝廷(天皇)とは大きく性質の異なるものでした。
- 初期大和朝廷は軍事国家で、天皇は将軍を兼ねた武力王だったが、後の天皇はむしろ宗教を担当する祭祀王だった
- 初期大和朝廷にとって重要な、天皇家の真の先祖神はタカミムスビだったが、現在では天照大御神がその地位に就いている
この変化は7~8世紀のことで、つまりこの時期に、タカミムスビと天照大御神の地位が入れ替わっているのです。
そしてこの時期は同時に、『古事記』や『日本書紀』といった日本神話が成立した時期であり、また日本国と天皇制が本格始動した時期と一致します。それまでは日本は「倭国」を自称し、また天皇は「大君(オオキミ)」と呼ばれていました。
天照大御神の誕生と、日本という律令国家の成立はすべて繋がっていました!
天孫族のクーデターと大和朝廷誕生については、第6回でくわしく解説しています。
飛鳥時代-白村江の戦いと律令国家「日本」の誕生-

大和朝廷はイケイケドンドンで征服を進め、中部~西日本を統一。さらに朝鮮半島の南端「任那(みまな)」を植民地化するまでに至ります。
しかしその歩みは、663年の「白村江の戦い(はくそんこう-)」で止められました。日本・百済の連合軍vs唐・新羅の連合軍との戦争です。
古代日本における最大の対外戦争でしたが、これがもう惨敗。
日本が朝鮮半島にまで大軍を派遣した理由は、任那を守るためだけではありません。朝鮮半島が中国との唯一の外交航路だったからです。
白村江の敗戦で朝鮮半島からの中国航路を封じられた日本は、未開の琉球航路から当時の中国……唐(とう)との関係構築を急ぎます。
同時に、今のままではいけないと、大和朝廷は勢力拡大と征服をいったん停止。国内の再整備を図ります。
これが、律令国家「日本」の誕生でした。
つまり律令=法律による統治と、国の土地や人民、政治を朝廷(天皇)のもとに集約させる中央集権化です。大国である唐と対等の関係を結ぶには、これらの整備が必須だったのです。
ペリーの黒船ショックによって起こった明治維新のような大改革が、古代にも起こったということですね。
まずは天智天皇が律令制を敷くにあたっての土台作りをしました。官僚制の整備、地方行政区画の形成、戸籍の作成など……しかしそんな第1歩を歩み始めたところで、天智天皇は急死してしまいます。
その後672年、天智天皇の息子の「大友皇子」と弟の「大海人皇子」が皇位をめぐって対立。古代日本最大の内乱である「壬申の乱(じんしんのらん)」です。
壬申の乱の勝者は大海人皇子でした。彼は天武天皇として即位します。

天武天皇は中国帝国にならった専制的な統治体制を備えた新たな国家=律令国家「日本」の建国に向けて、精力的に活動しました。
681年に律令の制定を命じ、また日本の正式な歴史(正史)と神話の編さんを命じます。続いて都の造営に着手……というところで病死。
この悲劇に、天武天皇の嫁(皇后)が持統天皇として即位します。
持統天皇は夫の願いを受け継いで、689年に日本最初の律令である「飛鳥浄御原令」を発布。694年には藤原京が完成。大国に引けを取らない日本最初の壮麗な都城でした。
持統天皇の後を継いだのが、天武天皇と持統天皇の孫である「軽皇子(かるのみこ)」で、文武天皇として即位します。
文武天皇の代に施行されたのが有名な「大宝律令」ですね。これは天武天皇代の「飛鳥浄御原令」をブラッシュアップさせたものでした。

こうして念願の律令国家「日本」が完成し、遣唐使を再開し、見事、中国との国交回復に成功したわけです。
ただし681年に命じた史書の完成には、もう少しかかりました。
日本最古の歴史書である『古事記』は、文武天皇の次の代である「元明天皇」の時代に完成。さらに日本最古の正史史書である『日本書紀』は、元明天皇の次の「元正天皇」代に完成。
大宝律令や藤原京、和同開珎に日本書紀など……完成時期だけ見ると、日本の本格始動は奈良時代の開始と同時期のように見えますが、その着手や命令はすべて飛鳥時代の天武天皇にはじまっています。
実は「天皇」という称号を最初に使ったのも天武天皇です。ですから天皇制を整えた人物でもあるのです。
また倭国から「日本」という国号に改称したのも天武天皇である、とする説が研究者のあいだでも大勢を占めていますから、律令国家「日本」は、天武天皇が作ったといっても過言ではありません。
飛鳥~奈良時代-天武・持統天皇の天照大御神の鎮魂-

初期大和朝廷は軍事国家であり、当時の天皇(大君)は将軍――「武力王」でした。
これは天孫族のルーツである北方系の騎馬民族の影響で、天皇が原則「男系男子」継承だったのも、天皇が戦闘指揮可能な将軍位を兼ねていたからです。
しかしこういった祭祀の軽視や武力王としての天皇像は、中世~現在にまで続く天皇像とはまったく異なります。
中世以降の天皇は、むしろ祭祀や儀礼を中心の仕事とする「祭祀王(さいしおう)」です。天皇の行う祭りは、日本の政治にとって非常に重要なものでした。
実はこの天皇の祭祀王化と、朝廷の祭祀復活を行ったのが天武天皇でした。
中国という大国と肩を並べる大国――律令国家「日本」を生み出すには、天武天皇は今の天皇像ではいけないと思ったのでしょう。

天武天皇が目指した天皇は、政治的・軍事的指導者であると同時に、宗教的指導者でもありました。
そのために律令制の施行と同時に、「神祇制(じんぎせい・神道や神社仏閣の体形的な制度化)」も進めたのです。
もっとも重要な天皇の祭祀である「新嘗祭(にいなめさい)」の儀礼を制度化したのは、天武天皇でした。
新天皇の即位年には新嘗祭の代わりに「大嘗祭(だいじょうさい)」が行われます。そして新嘗祭・大嘗祭の前日に行われるのが「鎮魂祭」でした。大嘗祭をはじめておこなったのも天武天皇であり、また鎮魂祭の儀礼である「招魂(たまふり)」を最初に行ったのも天武天皇でした。
祭祀を整えた天武天皇の次なる大仕事は、「日本神話の成立」であり、天照大御神を天皇家の先祖神(皇祖神)と日本神話の最高神に据え、伊勢神宮に祀り、卑弥呼を鎮魂することでした。
飛鳥~奈良時代-天照大御神とタカミムスビのすり替え-

天武天皇はなぜこうも今までの歴代天皇とことなり、宗教に対して熱を上げたのか。それは天武天皇の母親である「斉明天皇」の影響でした。
斉明天皇がオオクニヌシに祟られたのを見た天武天皇は、自身も祟られるのではないかと恐れたのです。斉明天皇のオオクニヌシの祟りと出雲大社については第7回でくわしく解説しています。
そしてオオクニヌシの次に祟りを成すのは、天照大御神(卑弥呼)だと考えました。勝手にかりそめの神として長年利用したのですから、そう考えるのも無理はありません。
実際に、飛鳥時代から疫病が流行ったり、天皇が早死にしたり、皇太子が死亡したりする悲劇が頻発しました。ですから飛鳥~奈良時代には中継ぎである女帝が多いのです。
とくに壬申の乱の関係者は悲劇に見舞われました。
天武天皇も早死にし、皇位継承予定だった草壁皇子も死亡。ですから天武天皇の嫁であった持統天皇が中継ぎとして即位したのですが……息子の軽皇子が天皇を務められる年齢になり、文武天皇として即位したかと思ったらこれまた20代で早死に。

天武・持統天皇はこういった災厄を、怨霊となった天照大御神(卑弥呼)の祟りだと考えたのです。
ですから日本神話を編さんする際には、天照大御神をタカミムスビと入れ替えて最高神として描き、天皇家の先祖神(皇祖神)だとしました。
そして歴史書では、天照大御神を祀る記事を過去の天皇の記事に差し替えて、歴史修正をはかりました。古い時代から祀っていたとするためです。
たとえば神武天皇の「神武東征」、崇神天皇の「オオモノヌシ祭祀」、垂仁天皇の「倭姫命の御巡幸」と「伊勢神宮創建」、推古天皇の「日神祭祀」などの記事には明らかに後世(天武・持統天皇ら)の手が入っていることがわかっています。
これは怨霊を神として祀ることで鎮魂し、さらに祟り(負のパワー)を神の加護(生のパワー)に変換しようとしたもので、この思想を御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。
こうなると天孫族が邪馬台国にクーデターを起こし、卑弥呼をモデルに天照大御神を創作したという事実は、天皇家のタブーとなりました。

神功皇后 歌川国芳画
『日本書紀』で卑弥呼と神功皇后を結びつけたのは、卑弥呼と天照大御神が同一だとバレないためです。
天照大御神が最高神・皇祖神となったことで、大和朝廷(天皇家)は卑弥呼の墓が眠る、その魂が祀られた九州の宇佐神宮を保護しようとします。
しかし卑弥呼や天照大御神として公に祀ることはできませんから、本来は渡来人の神であった八幡神を応神天皇にすり替えて、「二所宗廟(にしょそうびょう)」としたのです。
とはいえ本当の祭神は卑弥呼=天照大御神ですから、脇神であるはずの「比売大神(卑弥呼)」を、本来の主神である中心の位置に祀りました。
二所宗廟とは天皇家の祖神が眠るもっとも重要な2つの神社のことで、「伊勢神宮」と「宇佐神宮」のことです。どちらにも天照大御神=卑弥呼が祀られているのです。
宇佐神宮が奈良・平安時代においては、伊勢神宮と同格どころか、それ以上に重要視されていたのは、宇佐神宮に天皇家のルーツである卑弥呼の墓があったからです。(第5回参照)
飛鳥~奈良時代-鎮魂書『古事記』と鎮魂祭-

『古事記』と『日本書紀』はどちらも日本最古の歴史書ですが、微妙に記述の仕方が異なります。
たとえば『古事記』は、「語り」を直接文字にしたような、日本語としても中国語としてもおかしな変体漢文で書かれています。また『日本書紀』に比べて、神話部分のボリュームが大きいのが特徴です。
対して『日本書紀』は本物の中国人を登用し、正しい漢文で書いています。『古事記』よりはるかに多くの人の手と時間がかけられているのですね。実際に完成は『古事記』の8年後です。
こういった理由から、『日本書紀』は外国に国の正史を伝える史書であり、『古事記』は国内向けに作られたのではないか、という解釈がよくなされます。
しかし、別に『日本書紀』を国内人が読んでも問題ないですし、そもそも日本語でも中国語でもない『古事記』は読み解くのが難解でしょう。実際に『古事記』は江戸時代に本居宣長が再評価するまで、まったく読み継がれていませんでした。
天武天皇が『日本書紀』とは別に『古事記』をわざわざ作ったのは、怨霊鎮魂のためでした。

もちろん天照大御神も含めますが、『古事記』はそれ以外のあらゆる怨霊を鎮めるための鎮魂書でした。
『日本書紀』との違いを細かく比較していくと、滅ぼされた葛城氏の頭領・ツブラノオオミや出雲神話(滅ぼされた出雲族=オオクニヌシ)など、『古事記』では死者や敗北者への記述が多いことがわかります。
『古事記』は「滅びゆく者に寄り添う視点」で編さんされました。だから「滅びの美学」が織り込まれているのです。
『古事記』が鎮魂書であるという最大の根拠は、その奇妙な編さん方法です。
- 天武天皇が『古事記』の編さんを命じる
- 高い記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)という下級役人に、『古事記』の原資料を「誦習」させた(誦習とは、「何度も繰り返し読む」または「暗記したものを唱える」こととされる)
- 稗田阿礼が誦習した内容をもとに、太安万侶(おおやすのまろ)が4ヶ月かけて『古事記』としてまとめあげる
……どう考えても、②のプロセスは不要でしょう。

稗田阿礼(右)と太安万侶(左)(東京大学史料編纂所蔵
わざわざ資料を暗唱させて、それをまとめたというんです。太安万侶が、稗田阿礼が持つ原資料を見ながら編さんすれば、もっと簡単に終わるはずです。
これは手間暇かけてでも、稗田阿礼に「語らせる」必要があったことを表しています。
もう1つの謎は、稗田阿礼は、姓(かばね)も官位ももらっていない、非常に位の低い人間だったことです。いくら記憶力があっても、このような下級の人間に、国の歴史書編さんなどという国家事業が任されるはずはありません。
稗田阿礼はアメノウズメという神の末えいでした。そしてアメノウズメは、「天岩戸隠れ神話」において天照大御神の魂を鎮魂した=卑弥呼の葬送儀礼を担当した宗教者でした。
たとえ位は低くても、血統に優れたシャーマンである稗田阿礼が誦習=「語る」ことで、天照大御神の敗者の怨霊を鎮魂しようとしたのです。
新嘗祭(大嘗祭)の前日に天皇が行う儀礼である「鎮魂祭」もまた、当初は天照大御神の鎮魂が目的でした。

アメノウズメ像(天岩戸神社)
『古語拾遺』という平安時代の文献に、鎮魂祭の由来が書かれています。
「凡そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡なり」……つまり鎮魂祭の起源は、天岩戸隠れ神話のアメノウズメの舞にある、というのです。
実際に、先ほど紹介したアメノウズメの子孫である猿女君は、鎮魂祭で舞を踊りました。
ただ平安時代に入ると「魂結び」という信仰が生まれ、鎮魂祭に「木綿結び」の儀式が追加され、その目的も変わっていきました。
現在では鎮魂祭が一般的に、天皇自身の魂を結び留めて長命を祈る儀式と解釈されているのはそのためです。
天武天皇と持統天皇が行った律令国家日本の誕生と、天照大御神の鎮魂については第7回でくわしく解説しています。
邪馬台国から大和朝廷、倭国から日本へ:まとめ
現在の日本人を形作った中国南方系の第1波弥生人と、天皇家を形作った中国北方系の第2波弥生人はともに、太陽の昇る日本を目指しました。
そして第1波弥生人の宗教力と第2波弥生人の軍事力で九州倭国を統一したのが、邪馬台国の女王「卑弥呼」でした。
邪馬台国と大和朝廷に連続性があるように思われるのに、両者の社会や文化は真逆といえるくらいに異なっています。
それもそのはずです。邪馬台国の社会や王権に異を唱えた天孫族(天皇家)がクーデターを起こして作ったのが、大和朝廷だからです。この際天孫族は、人民の心をつかむために、卑弥呼をモデルに太陽神の女神である天照大御神を創造しました。
天照大御神は本来天皇家の先祖神ではなかったものの、その怨霊による祟りを恐れた天武・持統天皇によって、本来の先祖神であるタカミムスビと位置が入れ替えられました。

天武天皇
『古事記』の誦習も、『日本書紀』の歴史修正も、伊勢神宮の創建も、宇佐神宮の保護も、鎮魂祭も、すべては天照大御神=卑弥呼を鎮魂するための政策だったのです。
この視点で見れば、邪馬台国と大和朝廷の謎のほとんどを解くことが可能です。
天照大御神の鎮魂完了とともに、武力王だった天皇は祭祀王へと変化し、倭国から律令国家「日本」が誕生しました。
まじないや祟りといった価値観が蔓延していた古代日本の謎は、歴史学や考古学だけでなく、民俗学の方法論なくしては解けないことがわかってもらえたと思います。
民俗学とはなにか? 民俗学で古代史を読み解くという意味については、第1回で紹介していますので、興味のある方はぜひご覧ください。
ここまで読んでいただきありがとうございました。また本記事執筆にあたっての主な参考文献は、記事の一番最後に載せてあります。









